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- 環境問題について考える前に是非、みなさんに、地球のこと、大地のことを知って頂きたいと思っています。
その格好の材料として、日本には「地震」の織り成す大地があります。
- ■学生と花折断層を歩く
地震学の教授であった頃から毎年4月の土曜日に、京都大学の新入生の希望者と一緒に、花折断層を歩く会を開催してきました。
まず教室でスライドを用いて一時間ほど講義をします。そこでは地震の起こる原理のようなこともさっと話します。また、地震と京都盆地の関わりを簡単に話します。そして、歩く道順の地図で要所と要点を説明しておきます。
- ■花折のルーツは?鯖街道も、地震から生まれた?
まず、花折断層の正しい読み方はわかりますか?これは「はなおり」と読みます。
言葉の由来を知ると、その理由が分かります。
花折断層は水平右ずれの活断層です。大きくずれる運動をして大規模な地震を起こすたびに、破砕帯が発達してきました。破砕帯は断層全体に分布しています。破砕帯は浸食されて谷になります。それが京都から福井県までまっすぐ続く谷で、その谷に沿って道ができました。その道を通って、若狭から日本海の鯖が都へ運ばれました。その道が「鯖街道」と呼ばれています。
鯖街道に沿って流れる川は、南部では京都市に、北部では琵琶湖へ向かいます。その間に分水嶺があり、そこでは破砕帯が浸食されずに、険しい峠になって残っています。峠は破砕帯の粘土で滑りやすく、修行僧たちにとって難所でした。やっと峠を越えるときに修行僧たちは樒の枝を折りました。佛教で樒を花というので「花折り峠」の名がついたのです。
- ■京都大学の時計台は、地震にも耐え、長く残る構造に
吉田キャンパスには京都大学の象徴である時計台があります。時計台のある建物は、建築学科の初代教授であった武田五一によって京都帝国大学本館として設計されたもので、1925年に竣工しました。長尾真元総長は、2003年4月の入学式で「尖った三角形や山型の塔は権威主義的な雰囲気を感じさせるが、京都大学の時計台は四角で構成されていて、穏やかであり、調和を感じさせる」と述べました。そして、塔の高さは中庸で、四角い塔は堅実さを象徴し、丸い文字盤の時計は愛らしささえ感じさせ、塔の下の建物の十数本の同じ高さの柱は、構成員の平等、各部局の等しい役割を表現していると述べました。この時計台の建物は、長く保存するための工事や地下免震装置が導入されています。
- ■スタートは吉田神社
当日歩く道は、時計台の東、吉田神社への登り口の石段から始まります。
1930年の北伊豆地震を起こした活断層のずれが、石段と鳥居をずらせた跡が今でも残っていますが、吉田神社でも花折断層が石段の登り口付近を通っています。吉田山は花折断層の水平ずれのために隆起した新しい山なのです。
入学試験に合格して入ってきた京都大学の学生たちは、この吉田山を自分たちの庭だと思い、東山を借景として眺めることになります。その地形のできた仕組みを理解するのが、この日の花折断層を歩く会のねらいでもあります。
北部構内のグラウンドからは、断層の地形と東山の浸食地形を眺めます。東山は数億年前には海底にあって堆積した地層が隆起してできました。海底にあったとき、マグマが貫入して、両側の岩盤が焼けて硬くなりました。その硬い部分は浸食されにくいので高いまま残りました。それが比叡山と大文字のある山です。
- ■志賀越道を歩いてゆくと
花崗岩となった部分は浸食が激しく、低くなって峠ができました。その麓には白砂の扇状地が発達しました。そうして、扇状地の尾根から峠を越えて、都から近江へ向かう志賀越道ができたのです。志賀越道が今出川通りを切るあたりに花折断層が通っています。この活断層が2000年ほど動いていないので、京都大学でも地震対策をしっかりしないといけないのですが、予算がなくてなかなか思うようには進みません。
京都大学の側から見ると、北白川から今出川通りの農学部へ入っていく道のあたりに向かって、南西方向に出てくる道が志賀越道です。今出川通りへ出る場所に子安観世音が祀られていて、白川女が花を供えて都に商いに出ました。志賀越道の街道筋には農家が続き、農家と北白川山の間の丘陵地帯に花畑が広がっていたといいます。
大量の白砂でできた扇状地の、水はけの良い土地が花作りに向いていました。志賀越道は、京都大学の本部キャンパスに切り取られていますが、東一条から京大会館の前を通って荒神橋に向かっています。
- ■視点を変えて、歩いてみれば
こんな話をしながら、花折断層に沿って歩くのです。1966年に花折断層のずれが京都大学の地質学者石田志朗によって発見されてから今日までの、京都大学を中心とする研究の成果の一部を紹介しながら歩くコースなのです。
視点を変えて歩いてみると、新しい景色が広がる・・・そんなヒントになればと思います。
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